●「ギリシャ、イタリアを歩いて」
[河内長野市] 堀切 艶子(ほりきり つやこ)
全盲になってからは初めての外国旅行に、夫と二人で今年(2009)5月末から12
日間行って来ました。 行き先はアテネからスニオン岬、オリンピア、イタリアのア
ルベルベーロ、シチリア島のアクリジェント、そしてローマから帰る旅です。 この
旅は夫の定年退職を機に、32年前に行った新婚旅行と同じ場所を訪れる旅です。
が、私たちの旅はいつも飛行機のチケットだけを買って出発することと、夫のガイド
があまり上手でないことが、友人たちを心配させました。 私も不安が無かったわけ
ではありません。 体力のこと、トイレのこと、食事のことなど心配すればきりがあ
りません。 旅の失敗ほど後で思い出に残るものです。 「ええい」とばかり出発で
す。
でも出発の前に書いて置かないとと思うことがあります。 それは、32年前の新
婚旅行が二人別々の出発だったことです。 夫は大の旅行好きで、私が会社を休める
日数では物足りずに、先に出発してアテネ空港で合流するというものです。 そのと
き私の両親は、新婚旅行に妻を置いて先に出発するような男に娘を嫁がせたことを、
後悔したかもしれませんが、今も夫婦です。そして今回の旅ではもちろん手に手をと
って出発しました。
アクシデントは1日目から起きました。 アテネ空港からスニオン岬へ向かうバス
の乗り換え時のことです。 少々慌てさせられたこともあって、私は4、5段ある階
段をお尻で滑り落ちました。 そのため、次からは滑り落ちることもなく、日本のバ
スと勝手が違い、螺旋階段もあることも学習しました。 さて、最初に行ったのはス
ニオン岬にある「ポセイドン神殿」です。 ここはアテネから南へバスで2時間ほど
行った半島の先端に立つ、紀元前の神殿です。 紺碧のエーゲ海の青と、大理石の白
い神殿とのコントラストがきれいな場所です。 ここへは32年前には来ていません
が、ギリシャを紹介する旅行雑誌には必ず載っている、私も来たかった場所です。半
島の先端に立つ「ポセイドン神殿」の周りを歩いてぐるりと回ります。 私の一番心
配だったことの始まりです。 ギリシャ、イタリアは遺跡の国です。 普段歩いてい
る道と同じであるわけがないとは覚悟していましたが、大阪では歩きにくいことで有
名な「源聖寺坂」の比ではありません。 この大変なことがこれから訪ねる全ての遺
跡で待っていました。 でも捻挫もせずに帰ってこれたのは、夫のガイドが良かった
からでしょうか? 確かに苦労していました。「ゆっくりゆっくり。」や「足をもっ
と上げろ。」など。 帰ってみると、苦労したところほど自分の足で見て来たんだと
いう気がしています。
次の日、アテネの国立考古学博物館へ行きましたが、あまりに膨大な展示品に、普
段はおしゃべりな夫の口もだんだん開かなくなって、私には目の前に何が展示されて
いるのかさっぱり。 たっぷり時間はかけましたが、それでも回りきれないすごい数
の展示品ですから、仕方ありませんけれど。
二日目のアテネのことに入ってしまいましたが、1日目のスニオン岬に話は戻りま
す。最初にふれましたが、私たちは飛行機のチケットだけを買って出発する旅ですか
ら、ここでホテルを探さなくてはなりません。 でも観光地なのにレストランが1軒
あるだけです。 荷物を預かってもらっていたそのレストランでホテルを紹介しても
らうことにしました。 ホテルの名前を書いたメモをくれ、「このメモをバスの車掌
に見せろ。ホテルの前でバスは止まるから。」と言うのです。 5時30分のバスに
乗ることにしました。 しかしバスは来ません。こちらでは予定時刻よりもバスが早
く停留所に着いたとしても、その時にお客がいないと、予定時刻になっていなくても
出発してしまうことを知りました。 仕方なく6時30分のバスに乗ることにして早
くから待ちました。 が、またまた来ません。 7時前になってやっと来ました。
夫のいらいらは最高潮でしたが、バスがホテルの前に止まってくれた時にはありがと
うと笑っていました。
この日のホテルは朝食つきで65ユーロ(9000円くらい)。 この旅行で一番高
いホテルです。 これが二人合わせての料金だと言ったら驚かれるでしょうね。 向
こうではフロントでいくら? と聞いて、言ってくるのは一部屋の料金ですから、一
人の旅行は割高ということになります。 日本人ツアーで泊まるホテルほど超豪華な
ホテルではありませんが、この料金でもプールつきで、階段や床が大理石の快適なホ
テルでした。 ただ、床が大理石なので転ぶと大怪我するなあと用心して歩きました
。
この日の夕食はプールサイドでいただきました。 こちらで最初の食事です。 こ
ちらの1人前は多いということを忘れていました。 次からは注文を減らすようにし
ましたが、好き嫌いのない私たちですからもちろん食べ過ぎの毎日が続くわけです。
そして当然日本に帰ったら体重は増えているわけです。 最初に食事の不安と書き
ましたが、あれは食事の中身ではなくて、食事の食べ方のことです。 ナイフ、フォ
ークは使いにくいしと考えていましたが、「マイお箸」とウエットティッシュを食事
の時には必ず持って行き、お箸で食べている私を周りの人が見ていたかも知れません
が、我関せず美味しくいただきました。
二日目です。今日はアテネ市内へ移動します。
「出る前にひと泳ぎしてくる。」 夫はどこへ旅行する時も、冬でも夏でも水着を鞄
に入れているようです。 窓(三階)から「写真撮ってくれ〜」 「わかった」。
見えない私が撮る写真。これが不思議と命中しているのです。
さあ、今日のバスは時間通りにくるでしょうか。そしてフロントのおじさんは、ホ
テルの前で手を上げたらバスは止まると言ってるけれど、バスは時間が過ぎても来ま
せん。 そこへ通りかかったおばさんが「バス停はもっと向こうよ」 「ちょっと見
てくるわ。」と夫。 「今バス来たらどうするの。」と私が言ってるのに夫は行きま
した。
するとやはり思った通りバスが来ました。 「まっすぐや走れ。」 向こうから夫
が叫んでいます。 走るしかありません。 こんなのはほんとのガイドさんやったら
首やわと思いながら。でもいつの旅行のときも外国での旅行中は、夫には絶対服従で
す。 見えていた時でも外国では自分で行動できませんから。
さてそのバスは32年前に泊まった田舎の港町(グリファダ)を通ります。 途中
下車しようと言っていました。 が、高速道路ができ都会に変身してしまったようで
す。 アテネへ直行です。
着いたアテネのバスターミナルのすぐ前のホテルに決めました。 夫がトイレに行
きたい(かなりせっぱ詰まっている)からです。 それでもきっちり交渉はして1泊
が60ユーロから50ユーロにしてもらえたのですが、2泊するからと言ってもそれ
以上は引いてはもらえません。 昨日のホテルも「ええ?」と言っただけで、75ユ
ーロが65ユーロになったらしいので、ギリシャではフロントで「ええ?」と言うべ
しですね。
この日はホテルに荷物を入れた後、考古学博物館とパルテノン神殿、そしてあくる
日のエーゲ海クルーズの申し込みにピレウス港まで行きました。
考古学博物館の入り口で、私の障害者手帳を出して見ました。 「あらまあ。」
私の入場料が無料になりました。その後いろいろな所で念のために手帳を出して見る
ことにしましたが、二人とも無料にしてもらえた所や、手帳なんか関係ないという所
や、全ての人が無料のパルテノン神殿のようにさまざまです。
そのパルテノン神殿は、高さ156メートルのアクロポリスの丘の上に立っていま
す。 ここへは32年前にも来ましたが、あの時は8月の暑い日で、上るのがとても
大変だったのを憶えています。 でも今回は5月、坂も緩やかで両側にはおみやげ屋
さん、食べ物屋さんが並び、ギリシャのメイン観光地に来たという感じで、楽に上れ
「前の時と同じ坂かな?」と夫に言ったくらいです。 しかし神殿のそばはやはり歩
きにくい石だらけです。 おまけにたくさんの観光客が訪れるためか、足元の大理石
はつるつる状態です。 でも32年前と同じ場所に立ち、あの時と同じ教会の音を耳
にして、あの時と同じアテネの街が目の前に広がっているんだと感動しました。ただ
32年前には縦30メートル、横70メートルの神殿に入れたのが、今回は入れなか
ったので、10メートルの高さがあるという大理石の柱を手でさわれなかったのは残
念でした。
この日はエーゲ海クルーズの申し込みにピレウスまで地下鉄で行ったのですが、こ
の地下鉄でガイドの夫にまた怖い目に遭わされました。 ギリシャの地下鉄のドアは
閉まるのが早い上に、勢いよくがっちゃんと閉まるので、私が駅のホームに下りる時
、ドアが閉まる寸前だったのでしょう。 ガイドの夫は「飛べ、飛べ。」と言ったの
です。どういう分けか私も飛んでいました。まあおかげでドアに挟まれることはなか
ったのですが。
三日目です。 昨日申し込んだエーゲ海1日クルーズのツアーに参加します。 朝
バスが申し込んだ人たちのホテルを回って、ピレウスの港まで送り、1日クルーズの
後、またホテルまで送ってくれるというツアーです。 その朝、この旅行中で夫がも
っともあせった事件が起こりました。 私たちの泊まったホテルが小さいからなのか
は知らないけれど申し込んだ旅行社の人が
「テアトロメトロポリタンで待て。そこは誰でも知ってる映画館だ。」
と言ったのです。しかし、ホテルのフロントの人も、通りを歩く人も知らないと言う
ばかり。夫は「くっそう。あのやろう。」と頭に来るばかり。 でも旅慣れた夫は、
難なくでもありませんが、別のホテルからバスに乗ることに成功しました。
実は32年前のこのツアーでも事件はありました。 このツアーは、1日で三つの島
を回るというツアーですが、一つ目の島でジュースのお代わりをしていた時に、目の
前でツアーの船が港から出て行ったのです。 その時は定期船で三つ目の島でツアー
の船に追いつきました。 だから前の時はイドラ島に上陸しただけで、ポロス島、エ
ギナ島には上陸しなかったのです。そしてこのツアーも変わりました。 32年前の
このツアーには、日本人は私たちだけだったのが、今回は300人ほどの参加者の半
数以上が日本人なのです。 日本語の案内や説明がされるので、私にはまるで日本の
エーゲ海です。
この船のランチで、新婚旅行の日本人夫婦と同席になりました。 私たちの32年
があっと言う間だったように思えました。 若い二人に幸あれです。
もう一人船の中で、顔を合わせる度に優しく微笑んで、会釈を返してくださる人が
いました。もちろん私には見えませんが「どちらから来られたのですか?」と聞くと
「インドネシアからです。 今はギリシャに住んでいます。お会いできて嬉しいです
。」と名刺をいただきました。 インドネシアのギリシャ駐在大使でした。 白杖を
持つ私と、夫を優しく見守ってくださったのでしょう。
こんな風にツアーだから知り合えるということもあるのですが、ゆっくり見て歩き
たい夫と、ゆっくりしか歩けない私とでは、時間に追われるツアー参加は大変だと実
感しました。
エギナ島では、バスで山頂のアフェア神殿や教会へ連れて行ってくれるのですが、
アフェア神殿は25分、教会は15分という見学時間。 もちろん私たちは遅刻です
。 やはり気ままな二人旅が良いです。 それにこのツアーは、少々お高いかも?
120ユーロ(1万7千円くらい)。
でもこのアフェア神殿に行けて良かったです。これはパルテノン神殿より古く、石
灰岩でできているらしいのですが、1日目に行ったポセイドン神殿、二日目のパルテ
ノン神殿、そしてこのアフェア神殿とが正3角形の位置にあって、昔火を燃やして灯
台として使われていたということを知りました。
四日目です。この日は移動日です。
アテネから西へアドリア海に面したパトラスに向かいます。 32年前、窓ガラス
の割れたおんぼろバスで、砂煙を上げながら6、7時間走った道が、高速道路に変わ
り、3時間で到着。
しかしこのバスに乗り込む時にも、いろいろありました。 切符を買った後、朝食
を取り、バス停に戻るとそのバスはもう出たと言うのです。 長距離バスは全席が指
定のようです。 でもその場で次のバスに切符を変えてくれ、夫がそのバスのトラン
クに荷物を入れている間に、車掌と思われる人が、私に太い毛むくじゃらの腕を持た
せ、座席までさっと連れて行ってくれました。ギリシャのバスの悪口言ってごめんな
さい。
ギリシャの移動はほとんどがバスでした。 鉄道網があまり張り巡らされていませ
ん。 日本の青春切符のような五日分のユーレールパスを買って行きましたが、最終
的に余らせてしまいました。 調査不足でした。
ここパトラスから船でイタリアへ渡るのですが、1日延ばして、地図で見ると近い
オリンピアへ寄ることにしました。
パトラスからオリンピアへのバスの運転手は最悪でした。 カセットラジオをかけ
る、たばこは吸う、携帯電話はかけると、乗っている私たちはひやひやでした。 夫
が言うには危ない時もあったとか。 このバスは途中のピルゴスという町のバスター
ミナルで乗り換えてオリンピアに向かいました。 このターミナルでは、この旅行中
ただ1回だけ男子トイレに入った場所です。 ここにも障害者トイレはありましたが
、故障中でした。 だからこの旅行でトイレには困らなかったということになります
。 パトラスからイタリアへ向かう船の障害者用トイレは、広くてあまりに立派なの
で、夫が写真に撮ったくらいです。
その日は着いたバス停の近くに、1階にレストランがある小さなホテルを見つけ、
泊まることにしました。 この季節は夏と違ってホテルは空いているし、割安です。
しかしここのホテルはむちゃ安です。 さすがに夫は値切れませんでした。 一部
屋30ユーロつまり二人で4千円です。 このホテルのレストランで、ギリシャの有
名な料理のムザカを食べました。 茄子とミートソースの重ね焼きです。 その夜、
夫が両方の足にこむら返りを起こし、おまけに痛風の発作のように足の親指も腫れて
きました。 体力に自信のある夫の方がへばってきました。 えらいことです。 普
段は薬の嫌いな夫が、痛み止めやビタミンを飲んでいます。
すっきり治った夫と共に五日目の朝です。 今までの所と違って木が多いためか、
すごい小鳥たちのピーチクパーチクの声で目が覚めました。 オリンピックの遺跡は
ホテルからすぐの所です。 チケットの売り場に行こうとしたら、私たちを見つけ、
無料でゲートを通してくれました。白杖は万国共通なのですね。 ただ今回の旅行中
一人も白杖を持った人に会わなかったのはふしぎです。 ただここオリンピアでアメ
リカ人の女性から「ドブロクニクでお会いしましたか?」と声をかけられましたから
、私とよく似た白杖を持った日本人女性が、クロアチアのドブロクニクを旅行してい
たということでしょうか。
このオリンピックの遺跡の場所は、いつもオリンピックの聖火を採火する場所が知ら
れていますが、競技場もあったグランドを夫は古代のオリンピック選手のように走っ
て1周しました。 何人かの人がグランドを走っているみたいです。 ハアー、ハア
ーと息を切らして帰って来た夫が「1周走ってるのは俺だけや。走る格好も俺が1番
良い。」
私が見えないと思って何を自慢しているのでしょう? それじゃあその息切れは何
なの? 私も負けずにと言いたい所ですが。 私たちは土手のようになった観客席を
ゆっくり1周したり、グランドを眺めたりしました。 ここオリンピアでもいろいろ
な国の団体ツアーの人たちがほとんどで、私たちのようにのんびり座り込んでいる人
はいないみたいです。 だからこのシーズンでも駐車場は50台以上の観光バスで溢
れていたようです。 夏のハイシーズンだったらどーなるのでしょう。
そんなことより私たちは、路線バスでオリンピアから北へ夕方出港の船に乗るべく
、パトラスへ向かわなくてはなりません。 マナーの悪い運転手でないことを願いつ
つ乗り込めば、予定時刻より2分前に発車しました。 ギリシャを離れるこの日、「
まあ、いいか」と二人で言っていました。
そして32年前と同じコースを行くとしたら、私たちはギリシャのパトラスの港か
ら、イタリアのブリンディッシュへ渡らなくてはなりません。 それに行けたらシチ
リア島へも行こうと言っているのですから、ブリンディッシュの港へ渡るべきなので
すが、バーリの港を選びました。
イタリアの国の長靴の形をした踵の所がバーリで、その南50キロの所がブリンディ
ッシュです。 バーリに決めたのは、私たちが日本で買ったユーレールパスが使え、
安く渡れるからです。
また32年前の話しですが、あの時船の切符売り場で「学生か?」と聞くので「イ
エスイエス。」と思わず言ったために安い切符で船に乗ったのを思い出しました。
私たちがよほど若く見えたのでしょう。
あれから32年。私たちは年を取りましたが、船は立派になりました。 立派な障
害者用トイレのことは前に書きましたが、座席シートも飛行機のビジネスクラスなみ
で快適な船旅です。
六日目、イタリアに入国しました。 港から列車の駅まで少し離れているようです
。 バスを待っていると中国人の女の子が話しかけて来ました。 上手な日本語です
。 日本語が好きで勉強しているとのこと。 彼女たちはフィレンツェに行くそうで
、バーリの駅でさよならを言うと「おばさんさよなら。」。外国でおばさんと言われ
ると何か複雑です。
夫がシチリア行きの列車を探していますが、夜中までないようです。 「アルベル
ベーロへ行こう。」 コース変更もいつも突然決まります。 アルベルベーロは世界
遺産になって、今日本で注目されている所です。 キノコのような形の家が集まった
小さな村です。 バーリから南西へ電車で1時間ほどの小さな田舎町です。 バーリ
が踵の位置なのでアルベルベーロは土踏まずの方へ少し行くことになります。 駅に
降りてすぐ私たちと同年代の日本人夫婦と出会いました。
「さっきまで土砂降りの雨だったのよ。ちょうど良かったですね。気を付けて。」
駅から歩いて10分ほどの所に、その村はありました。まずは腹ごしらえと、最初
のレストランに入りました。 まあ、日本語メニューです。 日本人のお客が多いの
でしょう。 食事の後いつもの手で荷物を預かって欲しいと頼みました。
「今から夕方7時まで閉店です。」 大変です。 今から石の階段が続くみたいだか
らです。 仕方なく向かいの酒屋のおばさんに頼みました。 「良いですよ」と快く
引き受けていただきました。
この村では何人もの日本人の方たちとすれ違いました。 ある絵を描く人に言われま
した。 「お気の毒に」と。 私、絵は描けないけど別にお気の毒じゃあないわと、
心の中で言いました。
この村でトイレに行きました。 古い村では障害者用のトイレはありません。 同
じようにキノコの形の家のトイレ前に、おばあさんが座っています。 女子トイレに
手を取って連れて行ってくれました。 ここがペーパー、ここが流すボタンと、手を
添えて教えてくれ、座ってびっくり。 便座がありません。 後で乗った列車のトイ
レも同じでしたから、こういう形もあるんだと納得です。
アルベルベーロの駅からバーリの駅に戻って、夜行列車に乗ります。 ピザで夕食
をすませ、夫は列車の中での食料を買い出しに行きました。 暗い駅の待合所で荷物
番の私は、少々不安です。 小さな音にもびくっとします。 こういう時は、白杖を
出していた方が良いのか、たたんだ方が良いのか、最期まで悩みました。
列車を待つホームで、心強い味方と知り合えました。 ドイツへ働きに行っていて
、シチリアへ里帰りに行く夫婦です。 これでシチリア島へ行くのは決まりです。
列車は長靴の形の靴底の部分を、つま先のサンジョバンニまで行き、フェリーで島に
渡ります。 私たちの乗った列車は、列車ごと船に乗るという便ではありませんでし
たが、ゴトゴト大きな音を出して船に乗り込むのは、日本にはないですよね。 列車
は32年前にも乗ったであろう、古い古いコンパートメントの列車です。 6人ずつ
が一部屋になって、片側が通路になっている、映画に出て来るような列車です。まだ
走っていました。 この列車の良い所もあります。ドアを閉めてしまうと、他の乗客
が入りにくく部屋を独占できることです。でも夏のシーズン中は無理でしょうけれど
。
七日目の朝5時、私たちのコンパートメントのドアを警察官がノックしました。
イタリア語でゴチャゴチャ言っています。 その警察官は列車に乗る時にも私を指さ
していたと夫が言いました。 どうも白杖の私に「大丈夫か?」と聞きに来てくれた
ようです。 でも朝の5時に、それもイタリア語ではびっくりさせられただけです。
その後、列車を降りてからも、たくさんの警察官と出会うことになります。 何せ
あのマフィアのシチリア島へ行くのです。 シチリアへ里帰りするイタリア人にも「
シチリアのメッシーナに着いたら荷物には気をつけなさい。」と言われ、私はシチリ
ア島へ渡るのが怖くなって来ました。
「フェリーに乗り換えは、この列車の終点の一駅手前だよ。」 シチリアへの里帰
りの方が教えてくれました。 ギリシャでもイタリアでも日本のように車内アナウン
スがないので、この方と一緒でなかったら大変です。
サンジョバンニからフェリーに乗りました。 警察官がたくさん乗っています。
30分でシチリア島のメッシーナに着きました。 そこから逆三角形の形の島の北側
を、列車は海岸に沿って島で一番大きな町・パレルモへ向かいます。 ホームで列車
を待っていると、今度は麻薬犬を連れた警察官がみんなの周りを回っています。 私
の鞄を麻薬犬がしきりに嗅いでいます。
「あほやなあ。それは昨日買ったナマハム入りのサンドイッチや。」そう言いつつ
このまま島を離れたいと思いました。なんだか異様な雰囲気です。 夫も「パレルモ
に付いたらそのままUターンしよか。」 「そうしよう。シチリアに行ったというだ
けでええやんか。」
そしてパレルモに着きました。 3時間ほど乗ったでしょうか。 「南のアグリジ
ェントまで行こう。10分後に乗り換えの列車が出る。」 さっきまで引き返そうと
言っていたのに、もうアグリジェントに行くことに決めています。 10分後に列車
が出ると言うのですから、行くしかありません。 アグリジェントは逆三角形の形の
シチリア島の南の先です。 そこにはギリシャ人が作ったというジョウーベ神殿があ
り、ガリバーが横たわっているような巨人像が復元されているという遺跡のある所で
す。
列車はパレルモから南へ南へ、延々とオリーブの木が植えられた丘を行きます。
ギリシャもそうですが、イタリアもひたすらオリーブの木が植えられているようです
。 夫は木の名前をあまり知らないのですが、実は家の庭に大きなオリーブの木が1
本あるので、この木だけは分かるのです。 それにしても夫の景色の説明のほとんど
がオリーブ畑なので、ほんとうかなと思うほどです。 そのオリーブ畑を経て、列車
で2時間ほどでアグリジェントに着きました。 長靴の形のようなイタリア本土から
、蹴飛ばされた小石のようなシチリア島ですが、日本の四国よりも広いとか。 フェ
リーで島に渡ってからここまで、6時間以上かかりました。 今日中のシチリア島脱
出は不可能です。 早速夫はホテル探しに行きました。 例によって私は荷物番です
。 なかなか帰って来ません。 こういう時にパトカーや救急車等の音がすると、心
配で心臓がどきどきしてしまいます。 なのに夫は「イタリアのホテルは高いわー。
」とけろりとして帰って来るのです。 でも一部屋が60ユーロ(8千円)だったか
ら高くはないのに、オリンピアの一部屋が30ユーロ(4千円)があったからでしょ
う。
ホテルに荷物を置いて、バスで10分ほどのジョウーベ神殿へ行きました。 海の
見える丘の上に、いくつもの神殿や崩れたままの遺跡がいっぱいです。 巨人の像の
有名な場所で写真を撮ったりしましたが、あまりに広すぎて全部歩けません。 その
辺りの石に座り、神殿を眺めていると、その遥か向こうに何10機もの風力発電の羽
根が見えると、夫が教えてくれました。 最新の風力発電と、何千年も前の遺跡が一
緒に目の前にする景色は、不思議な気がします。 ここはシチリア島でも南の先端で
すから、海からの風を受けて、ずいぶん発電しているでしょうに、イタリアは電気を
輸入しているとか。
この日の夕食は、シーフードレストランにしました。 夏のシーズン中ではないた
めか、お客は私たちだけです。 今夜のお薦めメニューを1人前と、ムール貝を注文
しました。 他のお客がいないからか何故か知らないけれど、山のようなムール貝で
、出されたパンは食べられる分けがありません。
八日目の朝です。 最終目的地ローマに向けて出発です。 こんなシチリアの南の
端まで来てしまいましたから、32年前に行ったナポリもソレントも飛ばして、ロー
マへ直行です。 それでもローマ到着は次の日です。
とりあえず乗り換えたパレルモへ行く列車に乗ると、途中の駅でバスに乗ることに
なりました。来る時にはアグリジェントまで行った列車が、帰りは途中までしか行か
ないとは、どうなっているのでしょうか。 これは事故などの振り替え輸送ではあり
ませんでしたが。 そしてパレルモからシチリア島の東の端、フェリー乗り場のメッ
シーナ行きの列車に乗り込みました。 満員です。 でも一人のイタリア人紳士が、
私に席を譲ってくれました。 聞くとその人も終点のメッシーナまで行くと言いまし
た。 今から3時間以上は乗るという時に、水戸黄門の印籠のように白杖で席を替わ
らせてしまって、ほんとうに申し訳ないと思いました。 この列車が遅れていたので
、フェリーは目の前で出てしまいました。 そのため、シチリアに渡ったら荷物に注
意しろとシチリア人に教えられたあのメッシーナで、一人でまたまた荷物番をするこ
とになります。 また白杖を見せた方が良いのかどうかと迷って、出したりたたんだ
りしました。
フェリーは30分ほど乗るだけですから、明石と淡路島よりもここは狭い海峡でし
ょう。 シチリアから渡った本土のサンジョバンニからは、夜行でローマへ。 長靴の
形をしたイタリアの爪先部分のサンジョバンニから、足の甲の所を通って北へと、海
岸付近を列車は行きます。
九日目の朝、ローマ中央駅に着きました。すごい雨と雷です。 あたりまえですが
日本の雷の音と同じです。 でも写真が見えない私には、ローマの雷として音を撮れ
ば良かったと、後で気が付きました。 音の風景を撮るべく録音機器も持って出たの
ですが、夫に預けたのは間違いでした。 眼の見える人が撮りたい音と、眼の見えな
い私が撮りたい音は違うのですから。
その雷もすぐ止んで、駅から3分のホテルを取りました。 休憩の後、バチカン市
国へ行きました。32年前も歩いて行ったのですが、今回は道を間違えたために、ず
いぶん歩かされました。バチカン市国のサンピエトロ寺院は、32年前と同じように
荘厳な雰囲気が漂っています。 32年前に寺院に足を1歩踏み入れた時の感動が思
い出されます。 あの時にはなかった日本語のアナウンスで「ここは神聖な場所です
。大きな声で騒いだりしないようにしてください。」と流れたのはショックでした。
それだけ騒ぐ日本人が多いということなのでしょう。
サンピエトロ寺院の後、隣り合わせのサンタンジェロ寺院へ。 ここはサンピエト
ロとは違って、お城の城壁のような形の、大きな円柱の形の石造りの建物です。 中
をぐるぐると石の緩やかな階段が続きます。 この日、ここに来るまでにもそうとう
歩いているので、私は途中でギブアップです。 階段の途中で夫が戻って来るのを待
っている私に何人かの人が「お手伝いしましょうか?」と声をかけてくれました。
やはり白杖は万国共通だなと痛感しました。 そこからホテルへはもちろんバスで帰
りました。 停留所を7、8個所通ったので、これは疲れるはずです。
この日がイタリア最後の日なので、夜はマンドリン演奏が聴けるレストランで食事
をしたいと思っていました。 ホテルのフロントに聞いてもないとのこと、今では日
本で三味線の聴ける食堂を探すようなものかと納得です。
前にフィレンツェでマンドラ(マンドリンより低い音の出る楽器)を買おうとした
時に、日本製しか置いてなかったですから、イタリアではもうマンドリンを弾く人も
減っているのでしょう。諦めてホテルお薦めの食事だけのレストランへ行くことにし
ました。
そのお店は、日本語の通じるレストランでしたが、帰る間際に日本人の女の人二人
が食事中なのを、酔っぱらった夫が見つけ、話し出しました。 私たちが32年前の
新婚旅行と同じ所を辿っていることや、私が前の時には見えていたことなど、酔っぱ
らっている夫のこの旅行の話は留まりません。 聞けば旅行社の人で、下見中だとか
。 その旅行社の二人にも、白杖の私と二人だけの行き当たりばったりの旅行は、驚
きのようでした。
十日目朝、今日でイタリアとお別れです。 ローマ中央駅から空港行きの列車が出
ます。 駅から3分のホテルに泊まっていたのが出発を遅らせました。 なんと空港
行きは25番線です。 おかげで25番線まで走らされました。 しかし目の前で列
車は出ました。 次の列車でも飛行機には間に合うのですが、ぎりぎりはいやなもの
です。 案の定長蛇のカウンターです。 そして私たちは一番最後の受付でした。
でも出発時刻の1時間前です。
荷物になるのでここまで買わなかったおみやげを買わなくてはなりません。 とこ
ろがカウンターのイタリア人のお兄さん「私の後に付いて来てください。 座席まで
ご案内します。」と言います。
「おみやげを買いたいのでけっこうです。」とこっちが言っても「いいえ、時間が
ありません。」と言って、さっさと他の乗客の通らない通路から、飛行機の座席まで
案内されてしまったのです。
そのため夫の好きなワインも何も買えずに、帰ることになりました。 でもこれは障
害者の私を、他の乗客が乗り込むより先に乗せてやろうという心遣いからですので、
文句の言いようがありません。 さらに座席に着くと、酸素マスクと救命胴衣の実物
を私の手に持たせ、説明してくれました。 これは国内の飛行機に乗った時にも体験
していません。 視覚障害者にはどの飛行機会社もこうしたサービスをして欲しいも
のです。
こうして私はみんなの心配をよそに、無事に帰って来ました。 視力を失ってからの
外国旅行に、私自身もいろいろな心配や不安を抱えての出発でした。 32年前に感
動した海の色や美しい風景、その同じ場所に見えなくなった自分を置いた時、哀しく
なったらいやだなと想像したりもしました。 が、そういうことなどただの1度もな
く、音で見て、足で見て、手で見てと、思いっきり景色を見て来たという気が今して
います。 そして白杖のおかげで「お手伝いしましょうか?」と何度も声をかけられ
ました。 それが自然にさらりとです。 ただ旅行中に一人も白杖の人と出会えなか
ったのは残念でした。
最後に2回目の新婚旅行に手を引っ張ってくれた夫にありがとうを言います。 目
の前の風景を語ってくれたことにも感謝です。 おかげで楽しい旅行ができました。
また一緒に行きましょう。
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